芙蓉(フヨウ)の花 夏から秋にかけて美しい花を咲かす。花言葉「繊細な美」「しとやかな恋人」
アナキズムと禅仏教(後半)(令和8年9月19日)
①自由についての問題
アナキズムは政治的権威を否定して「個人の」自由を主張する。その限りそうした自由は政治的に自由であっても、なお個人の自我にしばられている。このためにそれは完全な自由とは言えまい。
自由が個々人の自我に制約されているかぎり、個人と個人との間に意見の対立の生じてくる。このために理想社会の成立がいよいよ難しくなる。
理想社会を目指したアナキストたちの試みが、過去においていずれも失敗に終わったことがそのことを証明している。
この問題を解決するためには、つぎに述べるような禅的な自由をとりいれて、禅的アナキズムに転換する必要があるだろう。
禅に(一般的に仏教に)おける自由は、「個人」の自我を消滅した無私の自由である(「大雲好日日記274参照」)。それゆえにここには個人間の対立はないから、永遠に持続する理想社会の建設が期待できるであろう。
しかし言うはやすし行いは難しで、実際には仏教の立場でも、日々に自我を殺す努力を継続してゆかねばならない。
②「贈与」に関して
「贈与」という言葉は仏教の「布施」を思い起こさせる。仏教において布施は、仏教者がなすべき六つの実践(六波羅蜜)のうちの第一に数えられている最重要項目である。
この布施について、三種の無心(三輪空寂)の教えがある。それは「だれが」「だれに」「なにを」布施したかについて、それらのことにとらわれてはならないという教えである。
通常の場合、「わたしが」「あのひとに」「どんなものを」布施したかということについて気にしがちである。こうして心は汚染する。すると、かならずそこから問題が生じてくる。
仏教の三輪空寂の教えは、布施することから生じかねないそうした問題を離れた清浄の布施を説いているのである。
他方、モースの贈与論ではどうであろうか。モースは贈与の行為を「与える」「受け取る」「返しをする」の三段階にわけている。しかもそれらの何れもが「与える義務」「受け取る義務」「返す義務」というように義務と結びつけて理解されている。
それはモースが未開社会における贈与を何よりも、「社会を維持するための強制力をもった体系」と分析したからである。モースによって示された贈与は社会的強制力をともなっているという点で、何の強制力にもよらない自主的な仏教の布施とは明らかに異なっている。
であるならば、現代のアナキストたちが贈与論を手がかりにして、「貨幣と市場の社会」に風穴をあけようとする方策とは、一体どのようなものであるのだろうか。
まだまだわれわれも研究してみる必要があるようだ。

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