大雲好日日記-261 「求道の作家 中勘助」

求道の作家 中勘助(令和7年12月6日)

 

あるとき孝慈室森本省念老師の蔵書を整理していたら、背に墨で「中勘助集」と書かれた文庫本(小堀杏奴編、昭和26年、新潮文庫)がみつかりました。

 

中勘助といえば『銀の匙』の作家であるというくらいの知識しかなかったので、どうして森本老師が中勘助のものを読まれたのか、ということについて知りたいと思いました。そこで『銀の匙』をはじめいくつかの作品にざっと目を通してみたのです。

 

しかしそのような雑駁な読み方で中勘助がわかるはずもありません。しかたがないので今はメモ程度のものを書き残しておこうと思います。

 

中勘助は1885(明治18)年に岐阜県今尾藩士の5男として東京に生れました。没年は1965(昭和40)年です。第一高等学校、東京帝国大学を卒業。一校の同期に藤村操、安部能成、小森豊隆、野上豊一郎、尾崎放哉、同級に岩波茂雄、荻原井泉水らがいます。東大では夏目漱石の講義をうけ、そのときの同級に鈴木三重吉がいました。

 

彼の名を一躍有名にしたのは少年時代の思い出を自伝風につづった28歳のときの作品「銀の匙」です。それは漱石の推薦をうけて東京朝日新聞に連載されました。以降、岩波書店をおもな発表の場としながら文筆活動に入っていきます。現在でも『菩提達多』『菩提樹の陰』『蜜蜂・余生』『中勘助詩集』など数点が岩波文庫に収められています。

 

中勘助は表現者である前に生活者でした。このことを評論家の山本健吉はつぎのように述べています。

 

「中勘助の文学を考える場合、まず考えなければならないことは、彼は書くことを第一に考えず、自分の宿命的に繋がれた中家の人たちの生活を第一に考え、その重荷を背負っての尽瘁(じんすい)のため生涯の大半を犠牲にしたことである。創作はその余暇を利用してなされたにすぎない」(岩波文庫『菩提樹の陰』解説)。

 

勘助には優秀な兄がいましたが、その兄が若くして脳出血にたおれ、そのあと34年のあいだ痴呆状態で生きつづけます。その間、勘助は家の重苦を一身に背負うことをすすんで引き受けました。彼の文学はそうした苦渋にみちた生活のなかから生れました。

 

しかし彼の文章には不思議なことにそのような生活臭を匂わせるようなところが少しもありません。まるできれいに濾過されているかのように、どこまでも清澄な印象を受けます。このことは彼がつねに人間の歩むべき道を求めてつづけていたことと関係があるのでしょう。

 

「退転また退転 懺悔また懺悔 苦闘幾十年 わづかに克つことをえたり 日に月にやうやく高し 心の欲するところにしたがってしばしば矩をこえず 浄きかな浄きかな高し まことに浄きかな 喜びつくることなし この道の道かあらぬかしらねども」

 

中勘助はまことに市井の求道者でした。

 

「われ道を思うてやまず あしたにも ひるにも 夕べに まことに道を思うてやまず 朝にも ひるにも 夕べにも 愧づべきかな 愧づべきかな いずれの日にか東西を忘れん」

 

しかし道は無窮です、超人への道です。

 

「道を思うぞ楽しき/さはれわが道にそわぬこそ悲しかりけれ/げにも悲しかりけれ/この道の道かあらぬかしらねども」

 

「善も、悪も、賢も、愚も、・・・人はその「人」なるがゆゑに悉く醜い。私の愛するのは超人である。聖人である。はた覚者である」

 

だが超人にいたる途は孤独です。

 

「ほほじろのこゑきけば 山里ぞなつかしき 遠き昔になりぬ ひとり湖のほとりにさすらひて この鳥の歌をききしとき ああひとりなりき ひとりなり ひとりにてあらまし とこしへにひとりなるこそよけれ 風ふきて松の花けぶるわが庵に ほほじろの歌をききつつ いざやわれはまどろまん ひとりにて」(以上『中勘助集』)

 

さてこの辺でいったん立ち止まって、森本老師が中勘助に注意された理由を考えてみますと、それは彼の求道の精神に共鳴されたためではなかったと想像されるのですが、どうであろうか。

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