根源数1(令和7年11月15日)
新聞で詩人の谷川俊太郎が、「言葉が、善悪や男女、生死を分けるようになったけど、もとはひとつだ」と話していたという記事を読んで、大変興味深く思いました(徳永進・談、朝日新聞、2025/07/20)。
「もとはひとつ」――この「ひとつ」を「1」に置きかえて、この「1」を根源数1と呼ぶことにします。根源的1は普通の数字の1とは違います。数字の1をふくめて、すべてがそこからであるような、(そういう意味で根原的)1です。仏教の言葉では「無」や「空」がそれに相当します。
『碧巌録』という禅の語録に、「万法一に帰す、一何れのところか帰す」という問答が出ています。根源的1は万物を統一している1、万物がそこから出てくる1だと言うことができます。
その1が実際の世界において四分五裂しているのは、われわれが対象化された世界を言葉を使って、バラバラに分解(分別)するからに他なりません。
真実は分解(分別)される以前のところ、すなわち事々物々の根源である1のところにあるのです。禅はその1に狙いを定めています。
しかし、なぜ1が多に分かれるのでしょうか。森本老師はこの問題に大いに悩まれました。その答えをわれわれの分別心に求めるだけではまだ十分ではないでしょう。そもそも分別心がどうして起こるのかということがさらに問題になるからです。
そのことについて旧約聖書は「人類の祖先が知恵の木の実を食したからだ」と神話的に語っていますが、もし禅的な説明を試みるとすれば、どうなるでしょうか。
私の禅的仮説はこうです。「根源数1は有限ではなく無限であるゆえに、そのうちに無限の“エネルギー”を蔵しており、そこから万物が産出されるのである」と。
(どうです? ノーベル賞ものでしょう。 呵々)。

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