大雲好日日記ー233 「縁というもの」

縁というもの(令和6年3月9日)

 

梅(長岡公園)

 

仏教に縁起という用語があります。

「縁によって起る」という意味です。

しかも、すべての事物は縁起する、というように考えます。

この考え方は正しいと思います。

 

例えば花を咲かせるためには確かにその種あるいは苗(原因)が必要ですが、

それだけでは花(結果)は咲きません。

花を咲かせるためには

さらに土や水(縁になるもの)が不可欠なのです。

 

ところで縁というものは実に不思議な性質を具えています。

(「不思議な縁によって・・・」と言ったりしますね)。

それは予測不可能なしかたで私たちに働きかけてきます。

そういう意味で縁は人知を超えた作用だと言えるでしょう。

 

私の人生を振り返ってみますと、

その転換点にかならずある人が縁となっていたことがわかります。

しかもその人との出会いは、ほとんどの場合、偶然でした。

決して私が予期していたことではなかったのです。

 

もしかしたら、その人と出会わなかったかもしれないのです。

そういう出来事を縁があったというのでしょう。

 

人生においてこうあって欲しいと思うことが

叶う場合もあれば叶わない場合もあります。

それもすべて縁の有無による場合が多いように思います。

 

自分の願望が叶わなかったとき、

人はそのことを悔しく思うでしょう。当然です。

しかし、それは縁がなかった(「縁起」がよくなかった)ということなのです。

自分を超えた力がそうさせたのです。

 

だから、それはそれとして、

その悔しい思いからはやく離れることが必要です。

くよくよしてみても、そこからは何ものも生まれてきません。

 

「縁に随って須らく自から憐れむべし(随縁須自憐)」。

(人間はあらしめられるままに生きつつ、みずからを愛おしむべきものなのだ)。

これは寒山の言葉です。

 

任運騰騰(とうとう)、任運無作、任運自在。

これらの禅語も縁のおのずからなる運びに任せて

自在に生きて行く有り方を示しています。

 

 

 

 

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