大雲好日日記-185 「”苦しい時の神頼み”について」

「苦しい時の神頼み」について(令和4年8月3日)

 

アサガオ(長岡禅塾)

 

「苦しい時の神頼み」とは、

普段は神仏などに全く無関心なくせに、

何か困ったことがおこると、

にわかに神仏にすがろうとする身勝手な振る舞いを揶揄する諺ですね。

 

そのことについて少し考えてみたいと思います。

 

お釈迦さんの時にそうであったように、

人は何か苦悩に直面した時に、

その救いを求めて神仏に頼もうとします。

「苦しい時に神頼み」とはまさにそのことです。

 

上田閑照先生が若かった時に、

師の西谷啓治先生に、

自分の苦しい胸のうちを打ち明けられたことがありました。

すると、西谷先生は思いのほか、「それはよいことだ」と答えられたそうです。

 

その意味するところは、

「苦しみの経験を通すことによって初めて、

人は人生の真実を分かろうとするようになり、

そのことがやがて神仏の世界への真の目覚めにもなる」

ということだったと思います。

 

ところが人は往々にして、

苦難に直面してもそれを本当に悩むことをしません。

森本老師はよく、「もっと真剣に苦しみ給え」「君は苦悩が浅すぎる」と言って、

悩める若い人たちを教導されました。

 

「苦しい時の神頼み」の時のような中途半端な苦しみ方に対して、

神仏は決してその真の姿を現わすことはありません。

 

「苦しい時の神頼み」には、

もう一つ別の中途半端が見られます。

 

それは「神頼み」のしかたにおいてです。

「神を頼む」というのは「神に任せる」(他力)ということです。

つまり自分をいわば「明け渡す」という意味です。

ところが実際にはそのようになっていません。

 

依然として自分というものを護っています(自力)。

しかし、自分を護り、神に頼るというのは、

同時に二人の主人に仕えることです。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」とは聖書の言葉でした。

 

以上、見てきたように、いわゆる「苦しい時の神頼み」には、

その苦しみ方と頼み方の両面において不徹底さが見られます。

そのために神仏がその人の方に向って微笑むことはありません。

それはただの気休めにすぎません。

 

ここでちょっと宗教団体への献金のことに触れておきたいと思います。

宗教団体に寄付をすれば救済が保証されるということは、

古今東西を問わず、よくある話ではあります。

しかし、そういうことは決してありません。

 

もし宗教団体の方からそのような話がもちだされたら、

その宗教を疑ってかかる必要があります。

 

もちろん寺院からその維持管理のために

寄付をお願いすることはありましょうが、

寄付をした・しない、どの程度したかということと、

神仏の救いとは直接関係はありません。

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