大雲好日日記-271 「なぜ論語なのか」

なぜ論語なのか(令和8年4月11日)

 

森本省念老師は論語を「天下第一等の書」と評してたいそう重視された。それがいつごろからであったかは定かではないが、31歳のときの日記に伊藤仁斎の『論語古義』を読んだということが書かれている。

 

また56歳から岐阜の正眼寺で修行中であったときも、夜中の遅くまで論語を読んでいたことが知られているし、72歳のとき長岡禅塾の提唱で論語を講本に使われたことが、元塾生によって報告されている。

 

論語と聞けば、いまや世間では、因習的な道徳の書と思われているのであるが、なぜ森本老師はそのように論語を大切にされたのだろうか。それは禅にとっても論語が必要であるという認識があったからである。

 

浅井義宣老師によると、森本老師は、「禅は論語の変形である、論語とインド仏教のとの結合である」と言われた。(『禅 森本省念の世界』165頁)

 

ちなみに、浅井老師はそのことを、禅は「論語を仏教の空という洗濯粉で洗濯し直したもの」と言い換えられている。(『論語と禅』11頁)

 

普通、禅は老荘思想と結びつけられて考えられているから、二人の老師の見立ては独特だといえるだろう。では、なぜ老荘でなくて、論語なのか。その点について考えてみる必要がある。

 

それには禅の特色に注意する必要があるだろう。禅の真骨頂は現実の具体的世界を生きていくところにある。論語はまさにそういう世間での生き方を問題にした書である。この点で論語の世界は禅の世界と重なる。森本老師が論語を重視したのはそこを見てのことだったのではないか。

 

(他方、「無為自然」を標榜する老荘思想は「無」に沈みがちなところがある。活き活きと働く生活面が希薄であるように思われる。)

 

ただし論語が問題にしている世界は俗世間なので、どうしても「道徳臭く」なる。この「臭さ」を払拭する必要がある。

 

禅は世俗の世界にいながら、同時に無の世界へ超えでることによって、(換言すると、無心で生活することによって)、その「臭さ」を洗い落とした生活を楽しもうとするのである。

 

そのように森本老師は論語をあくまでも禅者の立場で見てゆかれたのである。

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