“よき人”とは(令和8年3月14日)
「頭のよい人」、「性格のよい人」、「行いのよい人」、「品のよい人」、「愛想のよい人」等々、一概に「よき人」と言ってもその意味は多様である。
「よき人」ですぐに私に思いだされるのは、親鸞にとっての「よき人」である。
親鸞につぎの言葉が残されている。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに、別の子細なきなり」(歎異抄)。
この場合、「よきひと」とは法然を指している。
親鸞は法然の「おほせ」を聞いて阿弥陀仏に帰依することに決したのである。
こうして親鸞は自己の立脚地を獲得して、安心の道を歩んで行けるようになった。
親鸞において「よき人」とは、そういう意味で、生きてゆく上で決定的な指針を示してくれる人のことである。
森本省念老師にとって「よき人」は西田幾多郎であった。
その日記(昭和11年4月26日、老師47歳)につぎのような記述が見いだされる。
「先生に対していると、自分の心の雲霧が晴れてすがすがしくなるのを覚える。自分の心内に伏在していた問題がある言葉となって吐露せられ、解決が得られたような気持がするのである。(中略)良き人に会うことの電石火的な効果は否むことができない」。
この日記が書かれた当時、森本老師はまだ雲水の身として相国僧堂で修行中で、日々、公案と格闘しながら、人生の諸問題についても思いをめぐらせていた。
そんな中での恩師宅への訪問であった。久しぶりに恩師と対座しながら、森本老師はその機会に日ごろ解けずにいた問題について尋ねたのである。
それが電光石火のごとく氷塊していった。
森本老師にとって「よき人」とは、そのように人生の前途を照らし出してくれる人のことであった。
よき人にめぐり逢うことは人生の至福である。

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