『臨済録』の問題点(令和8年2月14日)
森本省念老師は恩師である西田幾多郎が、東京横浜が空襲のとき、一切が焼け失せても臨済録と歎異抄が残ればよい、と言ったことを「大変深い」考えだと同感している。
西田も森本も猛烈に禅の道を歩んだ人であった。その両人がそろって臨済録の他に歎異抄も必要だと言うのは、どういうわけなのだろうか。
臨済録では「仏道を学ぼうとする人たちは、ともかく自らを信じなくてはならぬ」と言われているように、自力が強調されている。
西田や森本はそうした自力の立場を一応認めた上で、「聖道(自力門)の道、末通らず」の体験を通して、他力門に思いをいたした結果、歎異抄もいうことになったのだと思う。
しかし、臨済録(自力門)と歎異抄(他力門)という一見相反するように見えるものをどのように統一して生きていけるか、それが問題であるが、それは仏教の「空」に生きる人にしてはじめて可能になるだろう。
「大雲の会」では隔週で臨済録の提唱を行っています。

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