われ思うゆえにわれ苦悩する(令和7年10月4日)
「わたし」が存在していることを証明するにはどうすればよいか、このことに苦心していたデカルトは、わたしが「思っていること」「考えていること」は絶対に疑えないと考えて、そのことが「わたし」の存在していることを証明していると結論づけた。このようにして発せられた有名な言葉が「われ思うゆえにわれ在り」である。
そのことはそれまで自己の存在を神に依存していた人間が、神の支配から自由になり、神から独立したことを意味した。このようにして神支配の中世が終わり、人間中心の新しい時代、近世が始まった。それでデカルトは近世哲学の祖と呼ばれている。
その後、人間中心主義はますますその勢いを強め、ついにニーチェが「神の死」を宣告するにいたった。現代はその延長線上にある。
人間が人間を超えたもの(神仏)をなみして自らその地位を占め、自由勝手に振る舞うようになった世界が、現在どのような愚昧な状態にあるか、このことについて言を費やすまでもないであろう。
こうした現在の地球規模の惨状について、その根本原因を考えてみると、それがデカルト以来の、人間(の「思い」)を絶対とする見方に存することは明らかである。それは人間の「思い上がり」である。
人間の「思うこと」について、仏教はそれを「分別」と言って迷妄の元凶としている。デカルトをもじって言えば、「われ思うゆえにわれ苦悩する」のである。現代社会はまさにこの苦悩の渦中にあると言える。
そして、その解決法も仏教のなかに示唆されている。それは分別を無分別(無心から生まれる智慧)に転ずる道である。いま人類に求められているのは、この道に目覚めることである。
「分別というのは賢い。しかし本当に賢いのではない、こざかしい。『仏智は無知(無分別知)』といってある。こざかしさは<有知>です。仏智は分別のない智慧(無分別知)です」(安田理深『信仰についての問と答』)。*( )内は筆者。
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