大雲好日日記ー219 「生死(しょうじ)その六」

生死(しょうじ)その六(令和5年9月16日) 

 

あおさぎ(長岡禅塾近辺)

 

禅門では「生れもしないし、死にもしない(不生不死)」

ということがよく言われます。

しかしこの言説は一般の人々には

なかなか受け入れてもらえないのではないかと思います。

 

なぜ受け入れてもらえないのかと言えば、

私たちは人の誕生と死去を現に目撃しているからです。

私たちもまた生まれて来て、死んで行くことは確実です。

これは事実です。

 

それでは人は「生れもしないし、死にもしない」という禅の主張と、

人は「生れ来て、死んで行く」という常識の主張と、

そのどちらが正しいのでしょうか。

この問題に関する禅話をひとつ紹介してみましょう。

 

あるとき、「悟った人でもやはり死ぬのでしょうか」と問われた僧が、

「いや、死ぬことはない」と答えたところ、

その罰として、野狐の身に堕ち、生まれ生まれ死に死んで、

五百回もの間、野狐の生活を繰り返すことになってしまいました。

 

そこで何とかその身を脱したいと考えて、

正しい答えをある高僧にたずねたところ、

その高僧は同じ質問に対して「死ぬ」と答えました。

その途端に僧は大悟して、野狐の身を脱することができたのでした。

(「百丈野狐」)

 

この禅話の教えんとするところは、

人間は本来「無」ですから、本来、「生れたり死んだりしない(無生死)」のですが、

現世では「生れたり死んだりする(有生死)」形で現象するということなのです。

 

そういうわけですから、有生死という主張と無生死という主張とは、

どちらが正しいかという二者択一の問題ではなく、

両方のことが同時に成立しているというのが本当なのです。

 

簡約に言えば、「有生死」即ち「無生死」ということになります。

あるいは、有即無、無即有と言ってもよいでしょう。

これが仏教の教える生死の実相なのです。

 

 

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