大雲好日日記-173 「愚禿」

愚禿(令和4年5月4日)

 

つつじ(長岡禅塾)

 

「人間には智者もあり、

愚者もあり、

徳者もあり、

不徳者もある。

 

しかしいかに大なるとも

人間の智は人間の智であり、

人間の徳は人間の徳である。

 

三角形の辺はいかに長くとも

総べての角の和が二角形に等しいというには

何の変りもなかろう。

 

ただ翻身一回、

此の智、此の徳を捨てた所に、

新たな智を得、新な徳を具え、

新たな生命に入ることができるのである。

 

これが宗教の神髄である。」

 

西田幾多郎「愚禿親鸞」の一節である。

この一節は法然の「一枚起請文」を私に想い起こさせる。

 

「念仏を信ぜむ人は、

たとひ一代の法をよくよく学すとも、

 

一文不知の愚鈍の身になして、

尼入道の無知のともがらにおなじくして、

 

知者のふるまひをせずして、

ただ一向に念仏すべし。」

 

親鸞が自らの名に冠した「愚禿」の言葉は、

「一枚起請文」中の「一文不知」や「無知」と共振している。

 

そして、それらはさらに白隠の「思慮分別を交えない」ことの謂いでもある。

(大雲好日日記172「隻手の声」を参照)。

 

いずれにしても、「知者のふるまい」をしている以上、

宗教の神髄に達することは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。

 

*『禅に親しむ』第43話(禅文化研究所 北野大雲著)も参照。

 

 

 

 

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